彼に捉えられた日は
夕焼けがとても綺麗だった。
汚れたあたしとは正反対で、とても綺麗な
あ の 紅 い 空 は
彼、不二周助とは三年になってから同じクラスになった。
彼の存在は一年のときから既に知っていた。
女の子と見紛う程綺麗な容姿と微笑み。
その人気は計り知れなくて、二年の半ば頃
テニス部のレギュラーになったあたりからは更に人気が上がっていた。
あたしの彼に対するイメージは、何時も微笑んでいて
どこかつかめない感じの人。
「天才」と呼ばれるようになる頃には、あたしの周りの女の子は
殆ど彼に夢中になっていて
実際、彼には彼女が居ないフリーという期間がとても短かった。
そして彼女持ちの期間も短い。半年続けばきっと長いほうだ。
だから、あたしはそんな彼がどうしてもてるのか解らなかった。
彼と付き合いたいという彼女たちも。彼と付き合って惨めな気持ちになるのは見えているのに。
あたしは何となく彼が苦手だったのだ。
微笑を絶やさない顔、優しい言葉を落とす唇、時折見せる蒼い瞳。
全てが、彼の存在自体が苦手だった。
出来ればこの1年、彼と関りを持たずに過ごしたいと思っていた。
しかし、そんなあたしの些細な願いは神様には届かなかったようだ。
学校全体が盛り上がる文化祭を終え、
制服も冬服へ衣替えをした肌寒い秋。
あたしは担任と進路について話し合った後
カバンを取りに教室へ向っていた。
風の穏やかな放課後。
ほんのり寒さを漂わせる廊下は、窓から入り込むオレンジ色の
夕日に染められ、その光を跳ね返していた。
人気のない学校は好きだ。
騒がしい音が何もなく、ただ淡々と時間を刻むだけ。
教室に入ると、人の居ない机や椅子がきちんと並べられていた。
きっと、今学校に残っているのは自分だけなんだろう。
そう考え、窓に視線を向けると空が綺麗だった。
あたしはゆっくりと窓辺に近づく。
窓を開けて空を見上げた。
夕焼け雲が紅い空を泳いでいる。
木の葉が僅かに残った木の枝がそれを区切るように
空へ伸びていた。
・・・・あぁ、綺麗だ。
思わずこの空を写真に収めたいと思ってしまった。
「・・・あれ、?」
カラ、と教室の戸を開ける音と同時にした声。
無意識的にそちらを見る。
それは人間としての習性というものだったのだろう。
紅い空を映していたあたしの瞳に、
その声の持ち主が映る。
そして、身体が無意識的に強張る。
喉の奥に何かがつまった感じ。
「・・・不二君・・・」
何かに押しつぶされたような
かすれた声が、あたしの喉から出てきた。
まるで、何時も騒がしくしているあたしとは
まったく逆の、おとなしい人のような声だった。
そのあたしの声に、その人――不二周助は
緩やかに微笑むと教室へ入ってくる。
あたしの声に笑ったのだろうか。
あたしは窓際から離れ、自分の席へカバンを取りに動いた。
早く帰りたい。
一刻も早く、彼と同じ場所に居るのは嫌だ。
何故だか解らないけど、
あたしは凄く焦っていた。
何に対してなのかははっきりと解らなかったが
頭の中では、早く早くと急かす声が響いていた。
きっと、何かが起こる気がして。
「それじゃ、あたし帰るから・・・」
あたしはカバンを掴むと、出口へ視線を向けた。
勿論、視線だけではなく身体もそのほうへ。帰ろうとしたのだから
当たり前だ。
だけど、あたしの足は一歩も進まなかった。
否、進めなかった。
視線だけはそれを捕らえて、身体が固まる。
金縛り、という状態に程近い。
そんな、馬鹿な考えが一瞬浮かんで消えていった。
「もう帰るの?」
彼は、不二君はそこにいた。
教室の扉の出口の所に。
教室に入ってきたものだと思っていたのに
不二君はそこであたしを見ている。
カバンを持っている指の先が冷たくなる。
黙ったまま動かないあたしを
不二君はクスクスと、あの女の子をコロリといかせてしまうような
微笑を浮べて見た。
不本意にも、あたしはそのとき、あぁ、綺麗だな
なんて事を思ってしまった。
「まだ、帰らないでよ」
その声が聞こえたのは、すぐ目の前。
気がつけば不二君はあたしのすぐ目の前にきていて
いつの間にこんな近くまで来たのだろう。
あたしは、気を失っていたように頭の奥がジンジンと痺れていて
うまく考えがまとまらなかった。
甘く落とされた言葉。
その声があたしの、今まで固めていた何かを崩させる。
いまや、あたしの瞳は彼の蒼い瞳に囚われている。
ほかのものを映す事も許されない。
彼の細い指があたしの髪をなで、あたしの頬を撫でる。
何故かひんやりと冷たい。
あぁ、もうすぐ冬が来る。
嫌だ。
あたしは アナタが苦手なのよ。
離して。
「・・・不二君・・・」
離して、その一言が出てこない。
何故?
しびれて上手く口が動かないから?
不二君が目の前に居るから?
それとも
「・・・」
腰に廻された手は、あたしを不二君に近づける。
身体が思うように動かなくて
あたしは逆らう事が出来なくて。
彼の指があたしの唇にそっと触れたとき、
あたしは気付いてしまった。
ドキドキと嫌悪感ではない何かで早くなる心臓。
まっすぐとあたしを見つめる彼の瞳。
あたしを彼に密着させる腕。
あたしの顔に、唇に触れる指。
あぁ、そうか。
あたしは彼に最初から彼に囚われていたんだ。
嫌だったんじゃない。
囚われていたから近づきたくなかったんだ。
「今日から、君は僕のモノだよ」
耳元で呟かれた甘い響き。
唇に押し当てられたものが、不二君の唇であると気付いた時
あたしは窓の外の紅い空を思い出していた。
あたしは、不二君に好意を寄せる彼女たちを好きではなかったのだ。
きっと。だからあたしは理解できないと思っていたのだろう。
あたしは何となく彼が苦手だったのだ。
(あたしは彼に囚われていた)
微笑を絶やさない顔、優しい言葉を落とす唇、時折見せる蒼い瞳。
(彼のモノに、彼の蒼い瞳に)
全てが、彼の存在自体が苦手だった。
(彼の、彼という存在に)
開け放った窓の外、紅い空に紅い雲がその身を燃やしていた。